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熊本地方裁判所 昭和63年(行ウ)10号 判決

原告

古庄冨子

右訴訟代理人弁護士

松野信夫

園田昭人

被告

地方公務員災害補償基金熊本県支部長

福島譲二

右訴訟代理人弁護士

坂本仁郎

理由

一  次の角括弧内の事実については当事者間に争いがなく、〔証拠略〕によれば、次の角括弧外の事実を認めることができる。

1  古庄は、大正一二年五月二〇日熊本県阿蘇郡で出生し、〔昭和二三年九月三〇日熊本県阿蘇郡高森町立高森中学校に教諭として採用され、昭和三八年四月一日以降、勤務校の教諭として勤務し〕、その勤務ぶりは同僚の教師から、責任感の強い真面目な人間と評価されるものであり、古庄の死亡前三年間の勤務状況は別表三のとおりであって、私傷病休暇も昭和五〇年ないし昭和五三年五月までとっていなかった。

2  昭和五二年、古庄の勤務校において、昭和五二年度の商業科主任選挙が行われ、倉原が選ばれたが、倉原がこれを固辞したため、再三選挙が行われ、三回目に古庄が選ばれた。〔古庄は、昭和五二年度、勤務校において商業科主任として〕、商業科を総括し、商業科の予算編成・行事計画・運営、その他を行うほか、別表二の昭和五二年度欄の「業務」欄に記載する業務(その内容は「内容」欄記載のとおり)を行っており、商業科主任は、その職務に鑑み、授業時間減縮などの配慮が行われ、昭和五一年度には、古庄は、一週間当たり商業一般三時間、事務二時間、経済四時間、経営四時間の計一三時間の授業を、昭和五二年度には、一週間当たり商業一般三時間、経済四時間、経営六時間の計一三時間の授業を、それぞれ担当していたが、これは、主任ではない教諭の担当する授業時間の平均一八時間を下回るものであった。

3  古庄の勤務校は、熊本県における商業教育の指導的地位にあったため、〔同校の商業科主任は県商業教育研究会の常任理事に就任することになっていたところ〕、九州地区八県の商業高校は沖縄県を除く七県の〔持ち回りで、毎年、九商研大会を開催しており、昭和五三年度は熊本が担当することになっていたので〕、慣例により、熊本県での九商研大会の準備を行うため、商業科主任及び副主任の二名で構成される〔事務局が勤務校におかれ〕、商業科主任である古庄が事務局長となった。古庄及び同年度の副主任であった長谷川は、昭和五二年八月ごろより、〔九商研大会の準備に着手〕し、長谷川は庶務、会計の双方を、古庄は企画を中心となって担当した。

4  古庄及び長谷川は、昭和五二年九月一日には、九商研大会の会場とする熊本市民会館及び熊本観光ホテルと仮契約を締結し、同年一〇月一四日には、県商業部会理事会で九商研大会の日程を八月二四日、二五日にすること及び熊本市民会館及び熊本観光ホテルを会場とすることを決定し、大会の予算案の審議を受け、同月二〇日には、長崎商業高校に出張し、準備について指導を受けた。両名は、同年一一月一五日には県秋季商業部会総会において、理事会の結果を報告し、その承認を受け、昭和五三年二月二三日までには、九商研大会のアウトラインができたが、同日、長崎県で開催された九州各県代表者会議に出席し、そこで、発表県、会費、宿泊費について了承を得た、同年三月七日までには、大会運営計画案、準備計画案、参加者県内割当案等について、概ね決まり、右同日、開催された県商業高等学校長協会校長会・県商業部会理事会合同会議において、右案について討議がなされ、了承を得、また、右会議において、九商研大会すなわち第一一回九商研大会の準備委員会・大会事務局が正式に発足した。そして、古庄は大会の事務局長に選任された。

5  昭和五三年度三月末ころ勤務校で行われた商業科主任の選挙の結果、古庄は商業科主任に選出されなかったので、商業科主任の地位をはずれることとなった。その際、勤務校の校長は、古庄に対し、なお、熊本県商業教育研究協議会事務局長として仕事を成し遂げてもらいたい、その意思があるならば、選挙の結果にかかわらず商業科主任に指名したい旨述べたが、古庄は、商業科多数の意向を無視して主任になってもうまくゆかないから一職員として協力してゆくつもりであると述べてこれを断った。しかし、新たに商業科主任に選任され、同時に熊本県商業教育研究協議会事務局長に就任し九商研大会を担当することになった倉原は、同年三月三〇日、新たに商業科副主任に選任された坂本と共に、古庄宅を訪れ、同人に九商研大会の準備を進めてほしい旨説得し、古庄はこれを引き受けることになり、ここに、倉原を事務局長、坂本を事務局員、古庄及び長谷川を拡大準備委員とする九商研大会の準備体制ができた。

6  当時、九商研大会の準備として、古庄及び長谷川のペーパー・プランはできあがっており、同年四月以降はその詰めが行われた。

7  なお、原告は、古庄が、帰宅後、学校関係の書類を作成するようなところを目にしてはいない。

8  〔古庄は昭和五三年度は、別表二の昭和五三年度欄の「業務」欄に記載する業務(その内容は「内容」欄記載のとおり)を行っており、前記のとおり、商業科主任及び熊本県商業教育研究協議会事務局長の地位を離れ、九商研大会の拡大準備委員となったので、授業時間数が一週間当たり二時間増えて一五時間となったが、担当する教科の内容について見ると、前年まで担当していた経済がなくなり〕、教材研究の点で負担が軽減され、〔クラブ活動でも顧問をし〕、古庄が得意としている〔商業美術を新たに担当することとなった〕。

9  昭和五三年四月以降、古庄は、帰宅が週に二、三回午後一〇時を過ぎることや休日も外出することがあったが、腰が痛い旨を訴える程度で、校長、教頭らも異常を認めることはなかった。

10  〔古庄の昭和五三年四月一日から同年五月一二日までの通常の授業を除いた勤務内容は別表四のとおりであり〕、古庄は、同年五月一日には、第一時限の商業一般、第二時限の経営、第四時限の商業一般の授業を、同月二日の生徒遠足は残留し、同月四日に第四、第五時限の商業一般の授業を、同月八日に第三時限の商業一般の授業を、同月八日に第二時限の経営、第四時限の商業一般の授業を、同月九日に第五時限の商業一般の授業を、同月一〇日に第四、第五時限の商業一般の授業を、それぞれ行った。古庄は、同月五日及び七日は自宅におり、同月一一日には、午前に第一時限の商業一般の授業を行い、午後は、熊本市内水前寺共済会館で開催された〔九商研大会の準備の一環として行われる各県代表者会議に出席して九商研大会計画案等につき説明し、さらに、各県代表者らの質問に対し答弁し〕、予算についてはこれを長谷川が行った。右会議においては、情報処理教育指導養成講座その他も議題となった。右会議終了後は右会館で懇親会及び二次会が行われ、古庄はいずれにも参加し、一二時ごろ帰宅した。

11  〔翌一二日は午前中に担当教科である第二時限〕の経営〔及び第三時限の〕商業一般の〔各授業を行った後、午後一時より〕午後三時過ぎまで〔校長理事会に出席して九商研大会の計画案の説明をし、各理事らの質問に答えた〕が、その内容は前日の各県代表者会議のそれと同じであって特別の準備は不要であったし、両日の会議は、長谷川の作成した実施要領にしたがって進行し、そこにおいては、特に問題となる議論も出ることはなかった。右実施要領などの文書を作成するような仕事はすべて長谷川が行っていた。右会議においては、前年度の九商研大会についてや役員の改選その他も議題となった。

12  〔古庄は、同日、右会議の後、各県の理事を熊本商科大学まで推薦入学についての陳情のため案内し、さらに、午後六時より水前寺共済会館で開催された懇親会に出席し、午後八時より勤務校の境校長ほか二名と共に二次会に出席した。その後、タクシーで午後一一時三〇分ごろ帰宅し、直ちに就寝したが翌一三日午前五時ごろ、心臓麻痺で死亡した〕けれども、右一一及び一二日の古庄の勤務状態について、校長、教頭、同僚教師らは、特に変わった点を認めなかった。

右認定に反する〔証拠略〕はいずれも採用することができないし、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

二1  以上認定の事実によれば、古庄は、その死亡の前年である昭和五二年度は、勤務校において商業科主任としての業務を行うほか、昭和五二年八月ごろより、九商研大会の準備に着手し、企画を中心となって担当し、昭和五三年度四月以降は、選挙の結果、商業科主任の地位をはずれることとなったにもかかわらず、九商研大会の拡大準備委員として九商研大会の準備を行ってきたのであって、その間、本来行うべき校内分掌事務のほかに九商研大会の準備を行うことに伴う相応の肉体前精神的疲労が生じていたことは否定することはできない。

2  しかし、古庄の昭和五二年度の授業担当時間は、一週間当たり商業一般三時間、経済四時間、経営六時間の計一三時間であったが、これは、主任ではない教諭の担当する授業時間の平均一八時間を下回るものであったし、昭和五三年度も商業科主任及び熊本県商業教育研究協議会事務局長の地位を離れたことに伴い、授業時間数が一週間当たり二時間増えて一五時間となったが、九商研大会の拡大準備委員となったので、担当する教科について、前年まで担当していた経済がなくなり、教材研究の点で負担が軽減されていたのであって、古庄が、中学校の教師として一五年、勤務校の教師としても一五年の豊富な経験を有する教師であったことを考慮すれば、その担当する授業時間数が古庄に負担となっていたとは考えにくい上、九商研大会の準備も古庄が一人で行ったのではなく、企画は古庄が中心になったものの、庶務、会計、実施要領などの文書を作成するような仕事はすべて長谷川が行っていたこと、昭和五三年二月二三日までには、九商研大会のアウトラインが、同年三月末ころには、古庄及び長谷川によるペーパー・プランは既にできあがっていたこと、古庄の死亡直前の五月一一日及び一二日両日の会議は長谷川の作成による実施要領にしたがって進行し、そこにおいても特に問題となる議論も出ることはなかったこと等に徴すれば、右両日の会議それ自体が特別な精神的緊張を伴うものとは考えられない。

そして、昭和五三年四月以降古庄は、帰宅が週に二、三回午後一〇時を過ぎることや休日も外出することがあったが、死亡直前の五月五日及び七日は自宅にいたのであって疲労が全く回復のいとまもなく蓄積していったとは考えにくく、それは古庄の死亡直前の五月一一日及び一二日も含めた当時、校長、教頭らも古庄に異常を認めなかったことからもうかがうことができる。

そうとすれば古庄の勤務校における勤務は、昭和五二年度及び昭和五三年度さらに、死亡直前においても、質的、量的に過激なものであったとはいえないし、また、死亡直前の五月一一日及び一二日両日の出来事が古庄にとって精神的に非常に緊張した状態を生じさせるものであったと認め難いことは前認定のとおりである。

3  さらに、原告は、古庄が勤務校の教職員組合と対立していた鏡校長と九商研大会の準備のため頻繁に接触していたことから組合の反発を招き、昭和五三年度三月末に行われた商業科主任の改選の際に商業科主任からはずされたので、その屈辱感、精神的情緒的ストレスは強度なものがあった旨主張する。たしかに、選挙で自己が選ばれなかったことによる相応の苦痛が生じたことは否定できないところであるが、それが、原告の主張するように古庄に対する組合の反発に基づくものであることを認めるに足りる的確な証拠はない(甲第三一号証中にこれに沿う記載部分があるが、あいまいで採用することができない)。そもそも、昭和五二年度の商業科主任を選ぶ選挙において始めの二回に選ばれた倉原がこれを固辞したため、再三やり直して三回目に選ばれた古庄が就任した経緯、主任選挙当日帰宅後も原告は古庄の落ち込んだ様子を見てはいないこと、古庄が校長に対し、商業科多数の意向を無視して主任になってもうまくゆかないから一職員として協力してゆくつもりである旨述べていること等に鑑みれば、商業科主任の改選で自己が選ばれなかったことが古庄の体調に影響を与え、本件古庄の心臓麻痺による死亡をもたらしたとは考えられない。

4  なお、〔証拠略〕中には、古庄の死亡をもたらした疾患が公務に起因するものとするのが相当である旨の記載部分があるが、右判断は、その前提とする事実が先に認定した事実と異なるものであり、採用することができない。

三  以上によれば、古庄の死亡を公務に起因したものと認められないとした本件処分は適法であり、その取消を求める原告の本件請求はその余の点を判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 足立昭二 裁判官 大原英雄 石原寿記)

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